5.1.15

イトコトルミット(3)

集落のはずれに体育館があった。もとからまばらな家が、そのあたりはさらにまばらだった。氷河がすぐそこまで迫っていた。風が少し強くなった。体育館は住民の10倍くらいの人数が入りそうなほど大きかった。だけど中には一人も入っていない気がした。氷河からくる雪解け水が地面を流れていた。

遠くにポツンと見える家から、やたらと大きな音量のテクノが聴こえてきた。ずいぶん大きな音だった。窓が開いていた。周りに何もなさすぎて、音はこだますることもなく不気味にまっすぐ響いていた。流行ってもいない知らない曲だった。小屋の中は見えなかった。でも、それをかけているのがどんな人でどんな気持ちか私にはわかった。部屋の中の様子も飲んでる飲み物もわかった。

私はこの音の風景のことを、どう書いていいかわからない。ただ、その時、人間は不平等だと思った。



巨大な衛星アンテナがあったけど、国際電話もラジオもぜんぜんよく聞こえなかった。インターネットは始まったばっかりで、東京でもダイアルアップが普通だった。その音は、適当なCDラジカセから永遠に繰り返し鳴っているに違いなかった。


また歩いていると、年配の女性とすれちがった。顔が祖母に似ていたので驚いた。なぜか向こうも私を見ていた。ニコニコして何か話かけてきた。意味はよくわからなかった。お茶でも飲んでけと家に招いてくれている気がしたが、確信は持てなかった。シワのある色白の肌や、グレーの目や髪の毛、縦長の耳が祖母にそっくりだったが、お腹だけが妊婦のようにポッコリ膨らんでいた。

肝硬変だった。後で父に聞いた。寒さと退屈に対抗して、強いアルコール飲料を多量に飲み続ける結果、住民は高い確率でアルコール性肝硬変を発症する。お腹の腫れは腹水で、もう重症だと言った。


夕方、といっても夏なので日は沈まなかったが、歌うような犬の遠吠えが一斉に響いた。犬がこんな声で鳴くだろうかと疑問に思うほど、吠え声の表情は豊かだった。そして大きかった。もし、これは狂人が叫んでいるんだと言われたら、きっと信じた。

イトコトルミット(2)

特にすることもなく、適当に高台に登った。なぜ船で外へ出られないかわからないほど天気が良かった。たいして高くもなかったが、そこから集落全体が見渡せた。どこに誰がいるのか肉眼で見える。人口500人っていうのは、見た感じこのくらいなんだなあと思った。おもちゃみたいだった。色は黄色かえんじだった。全部同じような形の小さい小屋だったけど、その中に郵便局や、警察や、監獄まであるらしい。

郵便局には、集落の唯一の公衆電話があった。普通の電話が一室にポンとおいてあった。そこから日本の母に電話した。通話後、かかった金額を窓口で言い渡される。別に高くはなかったと思う。通話の質は思ったより悪くなかった*が、良くもなかった。(*エコーがひどくて会話が成り立たないのに3分4000円とかした昔の国際電話に比べて。)

地面は硬い石の瓦礫でできていた。サーモンピンクやうす緑など、ちょっと不思議な色をしていた。拾ってみると、斑点があったり、うっすらと銀色に光っているのもあった。動物のフンや骨がいたるところに落ちていた。骨は犬の食べ残しだろう。あちこちにいる巨大な犬たちは、つながれているのもいたし、放し飼いのもいた。毛がボサボサで愛想がなく、1メートル以内に近付いてもまったくこちらに興味を示さない。

小腹が空いて小屋に戻った。ちょうどおやつの時間帯だった。チョコレートを探したが、誰も持っていない。じゃあまたスーパーに行ってくると告げると「もう閉まった」と言われた。一瞬意味がわからなかった。営業時間が10時から12時の二時間なのだった。


結局、一人が日本から持ってきたチョコを分けてもらった。彼は、小屋のポーチに腰掛けて日光浴をしながら、本を読んでいた。急に、彼の持っている本やチョコレートが、とんでもなくぜいたくで、貴重なものに見えた。




冬には、二階建ての小屋がすっぽりと雪に埋もれる。強い風が吹いて、荷物を運ぶ頑丈なソリが凧のように吹き飛ばされる。強風の中で、犬は雪に埋もれて丸くなって眠る。

4.1.15

イトコトルミット(1)

集落には赤いトヨタの軽トラが一台ある。常にキーが挿しっぱなしになっていて、誰でも使いたい時に使うことができる。ヨルンの運転でそれに乗って宿泊場所に向かった。

家々がなんとなく集まっているあいだの、なんとなく道っぽい部分をトヨタは揺れながらゆっくり進んだ。地面は瓦礫のような石でできていてデコボコだった。大きな犬が、あちこちをうろうろしていた。500人くらいがこの集落に住んでいると聞いた。


外海の天気が悪すぎるので、陸地にとどまって様子を見ようという計画らしかった。メンバーは、日本から来た父たちと、父の共同研究者がオスロから派遣したスタッフ、コーディネーター的なハンターのヨルンで、先ほどのデンマーク人女性の正体は、泊まった小屋のオーナーの奥さんだった。

ベッドルームだけが長屋のようになった棟とは別の、キッチンやトイレ、シャワーがあるメインの小屋で、出発に向けて食事や備品を準備して過ごした。集落には一つだけスーパーマーケットのような体裁の店があり、食料品や日用雑貨を売っている。翌朝、そこに買い出しに出かけた。

アイスランドのスーパーマーケットで、元気がなくほとんど味がしない野菜やくだものが、当時の自分にとっては信じられないほど高い値段で売られているのに驚いたばかりだったが、ここの青果コーナーはレベルが違った。

緑の野菜はブロッコリーのみ。それも株の半分が茶色くなっていた。スーパーの仕入れは半年に一回らしく、長期冷凍保存で冷凍焼けしたらしい。ちなみにここでは食器や大工工具と並んで、銃も売っている。銃は緑黄色野菜より選択肢が広く、3、4種類かもっと種類があったと思う。私たちは半分変色した、見切り品としてすら落第な一株500円のブロッコリーをカゴに入れた。


買い出しを済ませ、保存食の準備をした。昨日までの旅で収穫したというシロクマも料理した。簡単な昼ご飯の後、各自でのんびりしていた。ヨルンだけは海にイッカクが見えたといって飛び出していった。

他の人たちは昨日までの過酷な旅で疲れていた。小屋にはトイレがあったが水洗ではなかった。水の代わりに黒いポリ袋が排泄物を受け止める。悪臭を放つトイレと同じ空間にあるシャワーは、雪解け水を各自バケツでタンクに汲んで来て沸かす方式で、すぐお湯が切れる。薄暗く、昔北京で入ったドアのない公衆トイレを凌ぐハードコアな施設だった。何が嬉しいんだか私にはわからなかったが、皆ありがたがって使っていた。





2.1.15

同じ病棟だった人たち

私の病室は個室だった。入院中常に移動ベッドか車椅子で運ばれていたため、周りの様子はよく分からなかった。しかしどうやら同じ並びにもう二つ病室があるらしかった。一度だけ、3人一緒のタイミングでレントゲンを待っていたことがある。

一人は60歳くらいの女性だった。死にそうに弱々しかった。私には検査のたびに車椅子か移動ベッドが迎えに来たので、みんなそうかと思っていたら、彼女はレントゲン室まで一人で歩いていた。よろよろして、ものすごく遅かった。35年前に、私と同じ症状で入院し、私と同じ手術をした。その後無事に観察期間を終えて、子供を二人産み、少し前に同じ病気を再発した。今度の病巣は散らばっていて、以後毎月のように手術している。子供を産んで、育てる時間があったから、私は幸運だ。と彼女は言った。

もう一人の患者も女性だった。頭髪がなかったので歳はよくわからない。彼女は車椅子に乗っていた。何か点滴が複雑になったようなものを体につけていた。彼女は、弱っているというより、違うものになってしまっている感じがした。頭髪だけじゃなく、体のボリュームも、目の強さも、肌の質感も、淡々としているけどどことなく怒ったような口調も、本来の彼女のものではないような気がした。肺に病巣があるが、心臓に近すぎて手術できない。末期だ。と言った。

私も35年後に、一人目の彼女のようになるのだろうか。そうしてその時、今から健康になったとして、その期間をふりかえって幸せだったと思うだろうか。そしていつかもう一人の彼女のように、誰にも救えないところに一人落ち込んでいくんだろうか。これからの人生が、そこだけ文字が赤い有限のゴールデンウィークのように思えた。同時に、医師たちが私の部屋に来るのが少し嬉しそうな理由がわかった。