29.12.14

今思うと情けないまでにぼーっとした私がイトコトルミットについた話

父は、下着の転送メールの後、音信不通になっていた。一足先に日本を発つ前に、私の分も航空券を手配してくれていたはずだが、自分のことで忙しくなったのか音沙汰なかった。オスロから電話しても出ない。アイスランドに着いたもののそのいつどこから何行きの飛行機に乗れば良いのか分からずさまよった。

今でこそ観光地として名高いレイキャビクだが、延々と続く木のない溶岩の平原と、その先に不気味に上がり続けている煙、どこからともなく常に漂ってくる硫黄の匂いに、地獄的なものを感じ、「ヴァイキングはよくここに入植しようと思ったな。私だったら発見しても、家に帰ったな」と思った。実際ヴァイキングは、アイスランドの入植に2度か3度失敗している。一度か二度は普通に飢饉のようなもので入植者が全滅した。もう一度は、近親婚で全滅した。普通そこで諦めるよな、と思った。

二日後見つけた飛行機は小さかった。北ノルウェーで乗ったセスナみたいだった。着いた場所は飛行場というか田舎の診療所みたいだった。田舎の診療所と違い、小屋の外には人間の息吹というものが一切なかった。緑のない山々が岩肌と砂利を露出して連なっていた。土で汚れた氷河が輝くでもなく曇り空と一体化していた。荒んだ印象のなか小屋の内部だけがかろうじて暖かく、到着した人も出発する人も同じ空間に寄り集まって、ぽつぽつ立ったり座ったりしながらポットに入ったコーヒーを飲んでいた。

どれが係員か乗客かもわからなかった。誰かに名前を告げて誘われるままヘリコプターに乗りつぎ、岩肌に50コくらいレゴの家を置いたような集落に降り立った。すぐに白人の女性が近づいてきて「あなたのお父さんはここにはいない。私の家にきて泊まりなさい」と言った。怪しい人なのか来る場所を間違えたのか。ついて行くしかなかった。

このデンマーク人女性と私は、この何年も後に別の場所で何度もすれ違う。が、縁がないのかお互いがお互いをあまり覚えていない。何人もの共通の知人から「⚪︎⚪︎がね」と聞いて、あああの人か!と思うものの、顔もあまり思い出せない。それは結局彼女のお家にはお世話にならなくてすんだからだろう。海を背景に、父が機材とともに陸に上がってくる映像が今でも脳裏に残っている。父のヒゲがあんなに伸びているのを生まれて初めて見た。その集落の名前がイトコトルミットだと知ったのは約一週間後、船の旅を終えて帰る直前お土産屋さんのTシャツに印刷されていた。




© Jørn E W Fortun






25.12.14

3年前

その時私は初めて腫瘍に怒りを感じた。勝手に人の体に巣食っておいて、頭が悪いので勝手に死んでいる。

私の腫瘍は大きくなりすぎて中身が死んでいた。がん細胞はバカなので、たとえばみかんのように、「外界から身を守る皮を作る細胞」とか「水分や養分を蓄えるための実を作る細胞」とかに分化することができない。ひたすら増殖し、そのうち内部に酸素が行き届かなくなって死んでいく。

そのために私は再手術になった。生検したものの、採取した細胞が死んでいて、結果が出せなかったのだった。開いたり閉じたり革ジャンかよ。かなり詳しい説明を受けるまで、細胞が死んでいたのは医師かスタッフがサンプルをほっぽらかしてたせいじゃないのかと疑っていたので私はそう言った。私の体が革ジャンだとして、開け閉めするたびに痛みを感じるとして、でもその中身は腫瘍だけじゃなくて全部が実は得体が知れない。得体の知れない臓物が数十キロ詰まった革ジャンが私か。











10年前

8月の一番暑いお盆のころだった。知らない人から英文のメールを、父からの転送で受け取った。「ウール100%の下着を持ってくること」とあった。くり返すが私は、8月の一番暑い時期の東京にいた。真冬でも生足にミニスカートで外出できる温暖な街だ。ウール100%の下着なんて履いたことも、売ってるところを見たことすらもない。まして冬物など見たくも触りたくもない炎天下、ウールが混ざったものすらどこにも売ってなかった。

十数日後私は冬に着るみどり色のアクリルの下着シャツと、年中はいている木綿のパンツを持ってグーリーンランドに到着、そこから乗り込んだ船上で、メールの差出人に「下着は?ウール100%じゃない!?死にたいのか!!」と怒鳴られた。そして先に到着し、風呂もないテントに悪天候のため閉じ込められていた父が一週間だか二週間だかはきっぱなしだったパンツを、洗濯もできぬままはくはめになった。それが私と極地との出会いでした。ハンターはヨルンさんと言って、10年近くたった今でも付き合いがある。

約10年の間私は、この出来事を思い出す場面に何度も遭遇した。ヨルンさんの言っていたことは本当だと思う。着るものは、体の温度調節にとても大切だ。どんなにささいに見えることでも。極地じゃなくて、街の中でも。適切でない着衣のせいで、寒がったり、暑がって汗をかいた後寒がっている人に会うたびに、私は知っていることを教えるけれども、その話を真面目に聞いて実行する人はほとんどいない。

ウールは神様が作った。ヒートテックやフリースは、石油から人が作った。

ヨルンさんはそう言った。またはウールでなくて「羊は」と言ったかもしれない。道中私はヨルンさんや彼の同僚が、本当に物をよく知っていることにずっと驚いていた。天気のこと、動植物のこと、危機管理のこと、昔の話。私は何も知らないんだなと思った。

父がそのグリーンランドの東海岸イトコトールミットという場所で何をしていたかというと、原住民の母乳から出るダイオキシンの調査をしていた。グリーンランドでは、日本人のようなアジア系の顔の人たちが、極寒の中、ひたすら厳しく細々と生活している。その生活ぶりは一見ダイオキシンと無縁だ。何も知らない私の知識においてダイオキシンといえば農薬か化学兵器だが、グリーンランドはほとんどが永久氷河に覆われて、農地どころか草も生えない、虫もいない。戦争するほど人間もいない。

ただ彼らはシロクマを狩って食べる。シロクマというのは生態系の頂点にいる。その他のしもじもの動植物の汚染を一手にその肝臓にため込んでいる。そしてそのシロクマを食べるグリーンランドのお母さんたちの母乳からは、ヨーロッパの平均の何十倍ものダイオキシンが出るらしい。父は日ごろから肝臓の研究をしていたので、シロクマの肝臓が汚染経路になっていると聞いて、調査に行ったのだろう。



test